高橋泥舟 作品の買取
売却をお考えでしたら
お声がけください!
高橋泥舟 の 買取 なら、価値や相場をもとに買取をしております。
高橋泥舟(たかはし でいしゅう)という人物をご存知でしょうか?歴史や古美術品に詳しい方であればご存知かと思いますが、逆に歴史や古美術品にあまり興味がないという方であれば今初めて見聞きしたかもしれません。高橋泥舟の作品は古美術品として高い価値があることでも知られているのですが、高橋泥舟という人物そのものもとても興味深い存在です。ここでは、そんな高橋泥舟についてご紹介していきたいと思います。
高橋泥舟の作品の売却をお考えでしたら、是非「福和堂」にお声がけいただければと思います。
幕末三舟のひとり
幕末の三舟をご存知でしょうか?幕末から明治時代初期にかけて活躍した幕臣である勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の3人を指す総称です。この3人に木村芥舟、もしくは田辺蓮舟を加えて「幕末の四舟」とすることもあります。
幕末の頃、ご存知のように徳川慶喜から戦後処理を一任されたのが勝海舟です。その勝海舟は官軍の西郷隆盛との交渉役に高橋泥舟を推薦するのですが、高橋泥舟は慶喜の身辺警護にあたる遊撃隊の隊長を務めていました。そのため、江戸を離れることができず、その高橋泥舟の代わりに推薦されたのが高橋泥舟の義弟にあたる山岡鉄舟でした。慶応4年3月9日、山岡鉄舟は西郷隆盛との会談で、江戸城開城の基本条件について合意を取り付けることに成功しました。その後、勝海舟が単身で西郷隆盛と交渉し、同年4月11日に江戸城は無血開城されることとなったのです。
勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟はまさに江戸を戦火から救った存在です。奇しくも、3人の名前には共通して「舟」がつくことから、この3人を「幕末の三舟」と呼ぶようになったのです。
山岡鉄舟の義理の兄でもある高橋泥舟
幕末三舟のひとりでもある高橋泥舟なのですが、同じく幕末三舟のひとりである山岡鉄舟の義理の兄でもあります。
もともと高橋泥舟は江戸の旗本である山岡正業の二男として生まれました。その後、母方の高橋家へ養子に出されることになり、そのまま高橋家を継いでいます。山岡家は、槍術の名人を輩出した家柄で、高橋泥舟の兄である山岡静山も古今無双の達人とされていました。山岡静山から槍を習ったのが山岡鉄舟でもあります。
山岡鉄舟はもともと旗本の小野家に生まれ鉄太郎という名前だったのですが、山岡静山と高橋泥舟の妹である英子を娶り、山岡家を継ぐことになります。その一方で、高橋泥舟が槍道場を継ぐことになります。このあたりは複雑なのですが、高橋泥舟が山岡家と道場の両方を継ぐのは難しかったのでしょう。
槍一本で伊勢守に
高橋泥舟は天才的な槍術使いとしても知られています。「大砲だ」「軍艦だ」という時代に槍一本で伊勢守になったというのですから、伊達ではありません。「海内無双」と呼ばれるようになり、朝廷から「従五位伊勢守」に任じられることになります。
もちろん、もともとのセンスといったものもあったのでしょう。しかしながら、「馬鹿正直で命知らずな稽古をやった」と言われていますので、かなりの稽古を積んでいたのかと思います。ひとつのことを突き詰めて、結果を出すという部分には誰もが憧れてしまうでしょう。
ワイルドな逸話も
高橋泥舟に関してはワイルドな逸話もあります。
義理の弟である山岡鉄舟が亡くなった後、山岡家にはたくさんの借金が残されていました。高橋泥舟にその借金をチャラにできるだけの余裕はなく、返済に追われることとなります。そんなときに門人のひとりが質屋をしていることを思い出したのです。通常、何かを担保にしてお金を借りることになるのですが、高橋泥舟は「この顔は担保でござる」と堂々と言ってのけ、相手も「高橋様なら」とお金を貸してくれたのです。
高橋泥舟は勝海舟からも「馬鹿正直」と言われるようなまっすぐな人物でした。その人柄があってこその逸話です。古美術品としての高橋泥舟の作品も魅力的ではありますが、人としての高橋泥舟の生き方というのも同じくらいに魅力的と言えるでしょう。
日本の宝である作品の数々、もしお持ちでしたら
骨董品、古美術品買取
幅広い商品知識と、経験ある目効きある「福和堂」へ
ぜひ、ご連絡ください。
福和堂では高橋泥舟 の作品を欲しがっているコレクターや次に方へお渡しをする橋渡しの役を補っております。家の中に眠っている、高橋泥舟等の 作品の整理や売却をお考えの方がいましたら、ぜひ「骨董品買取の福和堂」にお任せ下さい。
お問い合わせ
蔵書の整理の際はお声がけ下さい。WEBからのお問合せ・ご相談・お見積りは無料です。メールフォームに写真を添付していただくと大よその査定額をお伝えできます。
高橋泥舟 出張買取について